本多 忠考(ほんだ ただなか)は、江戸時代後期の大名。三河国岡崎藩の第4代藩主。官位は従五位下・美濃守、中務大輔。忠勝系本多家宗家14代。

生涯

文化2年(1805年)、第3代藩主・本多忠顕の4男として誕生。4男のため、はじめ母方の姓で乙見敬次郎を名乗っていた。文化11年(1814年)に本多姓に復し、本多忠祥と名乗る(のちに忠考と改名)。

文政4年(1821年)2月9日、父が隠居した際、親藩から養子を迎えようという動きもあったが、家督抗争の末に忠考が家督を継いだ。このとき、従五位下中務大輔に叙位・任官する。しかし文政11年(1828年)の矢作川洪水で2万石の損害と70人余りの死者を出すなど、藩財政の困難はさらに促進される。しかもこのような中で忠考は病弱で藩政が執れず、とても藩の窮境を打開できるような人物ではなかった。

また、実子・忠胤も病弱だったため(ただし他にも実子はいた)、親藩高松松平家から忠民を婿養子として迎え、天保6年(1835年)5月24日に忠民に家督を譲って隠居した。

明治12年(1879年)11月21日に死去した。享年75。

系譜

父母

  • 本多忠顕(父)
  • 乙見氏 ー 側室(母)

正室

  • 幸 ー 堀田正愛の養女、堀田正時の娘

側室

  • 歌橋氏

子女

  • 本多忠胤(長男)
  • 水野忠誠(四男)生母は歌橋氏(側室)
  • 稲垣太清(六男)
  • 本多忠民正室
  • 秀 ー 秋元志朝継室
  • 本多栄子 ー 松平勝行正室

養子

  • 本多忠民 ー 松平頼儀の四男

脚注


【徳川四天王物語①】戦国最強と呼び声の高い名槍の使い手「本多忠勝(ほんだただかつ)」 ぽけろーかる[公式] 観光スポット記事

【本多平八郎家】 江戸大名学

【問題】我老公本多忠勝 場外休憩區 哈啦板 巴哈姆特

本多忠民(ほんだ ただもと)墓マイラーが行く。

本多忠勝 (岡崎市) がんでんの館