粘没喝(ネメガ)は、金の宗室。軍人。別名は粘罕、あるいは烏家奴。漢名は宗翰。劾者(ヘテェ)の孫で、撒改(サガイ)の長男。劾者は初代皇帝の太祖阿骨打(アクダ)の伯父であり、粘没喝(ネメガ)は阿骨打からは従甥にあたる。

経歴

従伯父の太祖阿骨打の挙兵以来から従い、契丹人国家の遼遠征に従軍して大いなる戦功を挙げた。天会3年(1125年)、阿骨打の弟で金の第2代皇帝太宗呉乞買(ウキマイ)によって左副元帥に任命された。粘没喝は大同に潜伏していた遼の最後の天子の天祚帝を捕虜として遼を滅ぼし、西京大同府を自らの基盤とした。金はこれにより内モンゴルを支配した。

宋朝は天輔4年(1120年)に金との間に結んだ「海上の盟」と称される盟約を守らず、背信行為に及んだため、太宗は1125年9月、宋への侵攻を開始し、阿骨打の子の右副元帥斡離不(オリブ、宗望)は河北方面から、左副元帥の粘没喝は山西方面から宋に侵入して華北一帯を席巻した。天会4年(1126年)正月には宋の都の開封を包囲した。北宋の徽宗・欽宗父子やその后妃・宗室・大臣たちを捕虜として、宋の財宝をまとめて、女真の故地である中国東北部に凱旋した。

数年後、南宋の要害である河南・山東を攻略して占領し、金の領土を拡大させると共に、本拠地の大同を中心として華北を統轄した。また、南宋に対して意欲的に交渉を行ない、かつて北宋の家臣であった進士出身の劉豫を傀儡皇帝として「斉」を建てさせた。やがて、粘没喝は太保・尚書令・領三省事に昇進し、晋王に封じられた。

天会13年(1135年)に太宗が没すると、族弟の斡本(オベン、宗幹)と共に族子の合剌(ホラ、太祖の孫)を擁立して、太宗の子の蒲魯虎(ブルフ、宗磐)や族父で盈歌(インコ)の子の撻懶(ダラン)と対立した。ところが斉の廃国に関連して蒲魯虎・撻懶が失脚すると、斡本は大同で兵権を持っていた粘没喝が目障りとなり、熙宗に上奏して、粘没喝を太保・領三省事という皇帝側近職に就任させ、軍事権を奪った。そのため粘没喝は次第に憔悴し、天会15年(1137年)7月21日に不遇のままで59歳で病没した。後に熙宗から、功績として秦桓忠王の諡号を贈られた。

太祖阿骨打の像とともに金上京歴史博物館(ハルビン市阿城区)に銅像が展示されている。

粘没喝(ネメガ)の孫の蕭王乙卒(秉徳)は、天徳2年(1150年)夏4月に、太宗ウキマイの子の阿魯(アル、宗本)とともに斡本の次男である海陵王(テクナイ)に警戒され、謀反の誣告を受けて、2人とも処刑された。なお、粘没喝の末裔は粘氏を称し、清代に満洲八旗の身分を得て江南に移住し、現在も健在といわれる。

宗室

妻妾

  • 側室:趙纓絡 - 北宋の順徳帝姫。徽宗の娘。

子女

  • 秦王・真珠大王 設野馬
  • 宝山大王 斜保

  • 蕭王 乙卒(秉徳)
  • 秦王 斜哥

関連系図

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0。 
  • 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 三上次男・神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X。 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 

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