石井 忠亮(いしい ただあきら / ただすけ、天保11年7月7日(1840年8月4日) - 1901年(明治34年)1月1日)は、幕末の佐賀藩士、明治時代の政府高官。位階勲等は従三位勲二等。日本国営電話事業の創始者。旧逓信省初代電信局長、錦鶏間祗候。鉄道の井上勝、郵便の前島密、電信の石丸安世と並ぶ「逓信四天王」の一人。通称・貞之進。

経歴

元佐賀藩士で、中牟田倉之助らとともに藩営三重津海軍所の教官として勤務した。明治元年(1868年)3月に開催された、日本初の観艦式では、旗艦電流丸(佐賀藩)に座乗し、5隻とフランス海軍から派遣された1隻の計6隻からなる受閲艦隊の総指揮官を務めた。戊辰戦争では、政府軍に属して佐賀藩海軍の陽春丸船将として箱館に出征。その戦功を明治天皇より賞され、戦功禄50石を下賜される。

海軍中佐のとき、軍務を去り、工部省に移籍する。土木・電信の事業に関わり、1875年(明治8年)には、ヨーロッパ各国の電信事情を視察する。1880年(明治13年)には電信局長に就任する。1883年(明治16年)には上海に出張し、現地の電話交換局を視察した。日本においても早急なる電話事業開設の必要性を感じ、帰国後、工部卿佐々木高行に対し、国営電話事業の開設を建言する。この結果、国営の電話事業が始まり、忠亮は日本で最初に電話通話を行なった。

1885年(明治18年)、ドイツで開催された万国電信会議には、日本政府代表として出席した。1887年(明治20年)には逓信省電信局長から元老院議官に抜擢された。1889年(明治22年)には和歌山県知事に転任する。1891年(明治24年)に非職、1892年(明治25年)4月28日、依願免本官となり退官した。1896年(明治29年)1月16日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。晩年は和歌山県で余生を送った。1901年(明治34年)死去。

栄典

位階
  • 1883年(明治16年)6月28日 - 従五位
  • 1893年(明治26年)2月28日 - 正四位
  • 1901年(明治34年)1月2日 - 従三位
勲章等
  • 1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章
  • 1889年(明治22年)
    • 11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章
    • 12月27日 - 勲三等瑞宝章
  • 1901年(明治34年)1月2日 - 勲二等瑞宝章

脚注

参考文献

  • 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。

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